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| 02.親父と「出会い」 09月16日 20:34 | コメント 9 通 |

- お土産

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多くの県外からおいでになるお客様のなかには
お土産を持ってきていただくお客様も多い,
ほとんどがお酒かお菓子、鼻を明かしてやろうと珍しいものをお土産に頂く
そんななかで出会った酒がほとんどだ。
お客様から教えてもらうことのほうが多い

なかなか入手が困難なものなどがあるとどうして手に入れたのかとか
こんなにしてまでと、どうお礼をしてよいか困惑するときもある。

そのためというわけでもないが梅酒を瓶に詰めておき、
お礼に差し上げる。今日はそのお土産用の
梅酒を瓶詰めにした、ラベルは女将の手書き、

あの店に又行きたい、あの店で美味しい料理を食べてみたい
遠くからでもわざわざおいでになる
お店、そんな店になりたいと長い間願っていたが

少しは近づけたのかもしれない
わざわざ宿代を払いおいでになるお客様の満足のためにも
お店のクオリティーは重要だ。きれいで快適な空間、しかし
調理場もお店も私の心と同じで
後から後から汚れてくる・・


| 02.親父と「出会い」 07月05日 14:48 | コメント 5 通 |

- たまてん

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先日、日立のtono様たちと郡山の猪熊亭を訪れたがそのとき
tonoがお土産に持参したのがこの玉天、
忘れもしない26歳のころこの玉天のお店を訪問したことがある。

当時日本民芸協会が青年夏季学校というのを夏に開催していた
会場は岐阜県飛騨高山市、全国から数十名の若者が参加していた.

参加者のほとんどが伝統工芸の作家の卵や学生だったような気がする
当時の飛騨高山は今とは違い、しっとりした美しい町であった。

2日間にわたる講習会は実に中身の濃いもので
講師は主に倉敷民芸館館長の外村吉之助先生が勤めた。
当時つらいことが重なり、行き場のない心は何かを探していた。

精神的に不安定な時期であったが、
若い頃、こういう場に出ていたことがのちのち自分の財産になったと思う
その時講習会の会場で富山県の八尾の町から来たという
機織の作家の女性と知り合いになる。

帰り道その女性を風の盆の踊りで有名な八尾の町まで送り届けた
そのときにお土産にいただいたのがこの玉天
ふわふわした卵白のメレンゲ生地に卵を塗りやきあげてあり
その美味しさに感動した記憶がある。

あれ以来音信もないが、あの機織をしているというあの女性
どうしているだろうか・・
確か田中さんといったような気がする


| 02.親父と「出会い」 03月07日 17:05 | コメント 5 通 |

- 氷筍を見に行く

山都の冬山
2月の末にお店の電気工事をお願いしている佐藤さんから
山都町の山の中の氷筍を見に行きませんかと誘われた。

この機会を逃すと一生観れないような気がしたので、同行をお願いすることにした。

以前から興味があったので、ちょっとしたハイキング気分ででかけた。ところが現場の登頂口に着いて、道路からその斜面を仰ぎ見ると足がすくんだ。

急勾配の斜面、おまけに気温が比較的高く雪がザケている。こちらからお願いした手前、いまさら止めますとはいえない。

後から着いてきた車の人もどうやら登るらしい、準備をしていると、彼の車から犬が一匹降りてきて、その犬と共に、私たちより早く登り始めた。相当に山に慣れている人らしく恐ろしいスピードで瞬く間に姿を見失った。

山の道はざけで何度も足が抜かり登頂を妨げる、上級者、しかも冬山になれた人でないと登れそうにないという印象を持った。

登り始めて1時間、ようやく山の尾根にたどり着く、どうやら後からも声がするところを見ると、人が登ってくるらしい。

下着が汗だくになりからだが冷え始めてきた。休憩の後
今度は急勾配の斜面を下り始める。

ほどなく自然に出来た洞窟が見え、そこに氷筍が見えるはずだ。洞窟前には私たちより早く登頂をはじめた人と連れの犬が休んでいた。

洞窟に入ると、氷筍は残念ながら、ここ数日の暖かい気温で溶け始め小さくなっていた、しかしなんだか不思議な感動を覚えた。
氷筍


写真は二年前の氷筍、佐藤さんが写したものだ。温暖化はこのようなとこにも影響を与えていることが良くわかる。

後からの人たちともその洞窟の前で合流、途中3人連れの方とすれ違ったが、本格的な冬山登山のスタイル
であった。




| 02.親父と「出会い」 12月23日 16:52 | コメント 1 通 |

- ベンネービス(会津のレモンハート)

ベンネービス
ノースランドのカウンターに気になる酒が移転以来長い間置いてあった。

誰か封切するのをまってたが、いっこうにその気配がない。ついに俺は「マスター封切していい?」と言い出してしまった。

ベンネービス10年、スコッチを封切する時は、いつも恋焦がれた女性と初めてデートする時のようなときめきを覚える。

ベンネビス
ベンネービス、マスターがおととしの誕生日に高価なべンネービスを飲ましてくれた。

そういえばこの蒸留所を描いた絵を俺は所有していた事を思い出した。大阪屋尾市在住の田中真砂子先生のスコットランド旅行の時にスケッチしたものだという。

飲んでみてやはりこのスコッチ特有の花の香がした。1960年代に作られたベンネービスは優れものが多くマニアの間でとんでもない値段がつけられていたらしい.

真砂子絵

熟成感たっぷりの甘みとフルーティさ何よりもヒースの花と思われる香が素晴らしい。

60年代ならではのしろものだ、そういえばヤマちゃんが当時50万円で買ったものも60年代ものなのだろうか


| 02.親父と「出会い」 12月13日 13:53 | コメント 4 通 |

- バーフライ(会津のレモンハート)

チョイ悪
ノースランドの夜もふけて遅い時間にこの店で人生の大切な時間を過ごした男たちがカウンターに飲みに来る。

若い頃ポルシェを乗り回していたもぐろふくぞうのやまちゃん、物しりの怪しげな不動産屋の怪人、何だか怪しい公務員のケンちゃん。

それにこの店の常連の代表といってもいいのは、チョイ悪親父のワカサの殿、そのほかにもうさんくさい正体不明のチョイ悪親父達が集まる。

年に何度か一同にカウンターに偶然並ぶ事があるが、
その光景たるや不気味ささえも漂わしている。
o-rudopa-


ワカサの殿がブログに掲載しても言いというので写真を載せるようにしてみたがみてくれこの貫禄、本人はもう痛風に悩まされて盛んな頃の見る影もないが、それでもコノ年での懲りないチョイ悪ぶりは筋金入りだ。

第一、お洒落でカッコいい、うちの女房もチョイ悪さんは、カッコいいとなんて言っている。

誠実そうで怪しげな雰囲気が女性にはたまらないらしい。

ワカサの殿はスコッチのブラックブッシュしか飲まない
この人の人生は、この店共に人生の大切な時間をを過ごした、筋金入りのバーフライ(BAR-に群がる酒好きハエのような男のこと)だ。




| 02.親父と「出会い」 11月11日 11:43 | コメント 7 通 |

- 風がふく

大田さん
 
10月25日にスカパー旅チャンネル「日本の居酒屋百銘店」で籠太のことを放映させていただいた。

ディレクター小川さんが8月の終わりごろ頃おいでになり、今度こんな番組が始まりますのでと企画書を渡された。

内容を見て、おもわず「うちの店なんかでいいんですか」と聞いてしまった。太田さんからも9月に見えるとの事。

9月の中ごろ、久しぶりに太田さんと再会した。太田さんと酒談義になりその中で会津美里町高田の、白井酒造製の「風が吹く」という酒の話になった。太田さんはこの酒に興味を寄せていたようだった。

確か記憶が正しくれば、太田さんの本を読んだのは十年以上も前、図書館で読んだような気がする。その後旧籠太に集まる常連達で、勝手に会津居酒屋研究会などと称して飲み歩いたような時期があった。そのうちに本家が我が酒亭に来たというわけだ。

10月1日撮影は開店1時間前から始まった、以前は営業時間帯に撮影していたが、今は肖像権とか何とかむすかしい事が多くなり、他のお客様がいない時間帯に撮るようにしたのだという。
風


太田さんが感心していた、「風が吹く」というお酒、石数280の小さい蔵だ、酒を飲んでいて、表現が正しいかどうか解らないが「可能性を感じる」ことがよくある。この感がよくあたる。もしかして下手すると大化けするかもしれない ・・・


| 02.親父と「出会い」 05月03日 01:09 | コメント 2 通 |

- 武相荘にて(福島民報サロン再録)

ぶあいそう
数年前、我が酒亭に品のいい中年のご夫婦が見えられた。当時我が酒亭はカウンターに会津漆器の漆椀を乾燥する時に使用する敷き板を使用していた。

その板が欲しいから手に入らないだろうかと、ご主人が後で電話をくれた。その後この御夫婦の奥様が白州正子のお嬢様である事が最近わかった。

白州正子は小説家でもあったが、一方で当代きっての古美術品のコレクターといわれている。縁とは不思議なもの、彼女の着物や古美術品、そして邸宅を撮影した藤森武さんも何度か我が酒亭においでになっている。

藤森さんも田舎の酒亭の親父がまさか自分の写真集を持っているなどとは思いもよらなかったらしく、驚いた様子だった。
武相荘庭


ある時にその写真を見て、どこかで見たことがあると気がついた。おもえば20年以上前に、私は縁があり、この白州亭を訪問していたのだ。おそらく藤森さんの白州亭の写真が無ければ気がつかないでしまったかもしれない。その偶然に愕然とした。

当時、この屋敷の方が書かれた本に出会う事も、その後様々な縁が出来ることも知る由も無いただの若者だった。

20数年の時を経て再び訪れることになった白州亭は同じ場所とはとても思えないほど様変わりしていた。あの横浜郊外の雑木林や畑が見えた場所が、今は住宅地となり、白州亭「武相荘」だけが時が止まったかのようにそのままの姿で佇んでいる。
黒侘び助

玄関の門の前に咲く紅白の梅に、メジロが遊び、白州正子が晩年長い時間過ごした居間のすぐ窓辺には、彼女が数多い椿の中でもことのほか愛した、黒侘び助の深紅の花が咲いていた。夫白州次郎と共にこの椿のもつ深い美しさを愛でていたのだと思う。20数年の時を経てその黒侘び助の花を眺めている自分がいた。


| 02.親父と「出会い」 05月02日 11:10 | コメント 3 通 |

- 憧れの人白州次郎(民報サロン再録)

武相荘正面
親父の故郷、福島県柳津町の柳津発電所に。ダムの完成記念碑が建っている。東北電力初代会長「白州次郎」が書いたものだ。

「この発電所の完成は地元の人々の理解ある協力と、東北電力の社員の不朽の努力なくしては不可能であった、その感激と感謝の記録としてこれを記す 白洲次郎」

白州次郎は戦後GHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男だ。ある雑誌の「私はあなたにあこがれる」という特集で、坂本竜馬に10倍の差をつけたといわれている。
白州次郎


イギリスのケンブリッジ大学をでたあと英国流の紳士道を身につけ、イギリス留学時代から生涯スポーツカーを乗り回し日本はおろかヨーロッパ中を走り抜けた。

身長180㎝、日本で最初にスコッチを輸入し、日本で最初にジーパンをはいた男と言われている。戦後吉田茂の下で戦後処理に就任、戦後復興に東奔西走の活躍をする。

その後白州は東北電力の初代会長に就任、 柳津町の月見が町民センタのある場所には白州が建てた皆楽荘があった。子供の頃、田舎町に相応しくないこのモダンな宿泊施設に誰が泊まるんだろうと思っていた。
武相荘竹林


雪の少なかった今年の2月も半ば、友人でもある契約栽培農家、美里町新鶴村在住の五十嵐さんと横浜市町田に在る小説家白州正子の邸宅を訪問する機会に恵まれた。小説家白州正子はこの白州次郎の奥様だ。

NHKで白州正子の事が大きく取り上げられた事もある、最近は訪問者が多いという。横浜在住の友人に話をしたら近くだから遊びに来たらと誘われた。十数年前何気なく手にした「西行」と書かれた本が白州正子との出会いであった。それから彼女が書いた小説や紀行文、美術関系の論説など片っ端から読み、相当に影響を受けた。


| 02.親父と「出会い」 03月26日 08:32 | コメント 6 通 |

- ワシントン講演(再録8)

ほしなまこ
最後に、天保九年,幕府 最後の諸国巡検使が来訪します。その時の若松宿泊の献立を皆さんに見ていただきます。宿泊場所はお宿屋敷とよばれ今の上町ゴリラビルのところにありました。残念ながらこの献立の書かれた原本は,持ち主の方が紛失してしまいました。

この料理を最初に復元いたしましたのは、昭和61年の年でありました。それから何度か再現しておりますがそのたびに様々な事がわかってきます。この写真には4つのお膳がのっておりますが、一度に出たわけではありません。

膳椀は「いっかけ」と申しまして黒塗りのお膳に縁に金がぬられたものを使用した事がのちほどわかってきます。その上には敷き紙と申しまして、折られた紙がしてあったようです。このあたりにも扱いが特別な事が見て取れます(神事にちかい・・)

最初に真ん中のお膳が出て、そのあと休憩があり、酒の肴膳が出てまいります。必ず吸い物や汁物がつきます。真ん中の本膳の上にありますのが、硯蓋という料理です。

注目していただきたいのが本膳の真ん中にあります
坪の中身です。何だか不気味なものが入っておりますが。これ干しなまこですとうじ「金子」とよばれ珍重されました。

江戸初期からの中国との貿易で、あまりにも金と銀が中国へ流失してしまいます。あわてた徳川幕府は金に換わるものを探します。中国側から要求されたのがほしなまこ、ほしあわび、ふかひれの3品でした。

いずれも中華料理の中でも最も高級な食材です。幕府はこの3品を専売品としてその生産、加工、流通にいたるまで管理します。これらは「俵物」と呼ばれ、大阪にはこのための会所ができました。

今の大阪駅の近くらしいのですが「俵物会所」と呼ばれたらしいです。ここから長崎に送られ中国に輸出します。つまり金と同じ位の価値があったわけであります。

会津藩は会津にきた幕臣に対しては、破格のもてなしを致しますがそんなことが献立にも現れております。


| 02.親父と「出会い」 03月25日 17:33 | コメント 13 通 |

- ワシントン講演(再録7)

鰊の山椒漬け
しかし幕末まで会津へは主に新潟からはこばれてきておりました。 弘化四十年十二月十六日の暮れも押し迫った頃、会津領の阿賀野川貝喰という難所で、越後からの商人四十四人を乗せた下り舟が転覆し多数の死傷者を出す事故が起きたことがあります。

この時の溺死者のほとんどは、越後よりの鰊売りの娘たちであったといわれています。いずれも五ヶ浜辺りの貧しい漁村の娘たちで、会津へ年取りのために使う鰊を売りにきた帰りにこの事故に遭っているわけであります


会津藩の記録にも、寛政二年頃から鰊売りの娘たちが城下にあらわれたと記録されています。赤い前垂れをした塩汲み姿で、桶二つに鰊を詰め、天秤棒にさげて「鰊いらしゃりませんかぇー」と唱えながら市中を売り歩いたという。なかなか色っぽかったらしく、文政年間に編纂された「徒ノ町百首俗歌」の中にも、下級武士と鰊売りの娘たちとの人間くさいドラマが狂歌として詠まれています。

文化年間前後になりますと本郷焼も隆盛期を迎えます。又人別長などを見ておりますと、醤油や味噌の醸造が盛んになってまいります。県立博物館にこの時代の年号が入った鰊鉢がありますがすでにこの時代に「鰊の山椒漬け」は完成していた事がわかります。

おそらく様々な偶然がこの会津を代表する郷土料理を無理のない形で生み出されたと想像するわけであります。

話は変わりますが、鰊の山椒漬けになぜ山椒の葉を使用するか考えてみた事がおありでしょうか。なぜでしょうか?いささか汚い話になりますが。山椒の香や味付けのために用いられたというのは残念ながら本来の目的ではありません。

冷蔵庫が無い時代醸造業の大敵は「ショウジヨウハエ」であります。桶の周りに匂いに寄せられて卵を産み付けます。山椒の葉はその虫除けのためだったのです。

味や香は2次的なものです。又鰊の油は灯明用として使われました。その搾りかすが肥料として大量に本土に持ち込まれます。 天明期の蝦夷地では、食用以外の農業用肥料として鰊粕の生産もさかんになります。


天明の頃、諸国巡見使一行とともに、東北、蝦夷を訪れた古川古松軒の著わした「東遊雑記」に、この辺りに触れた記述があります。 「数の子は全国に出回り、魚肥としての干し鰊は昔は北国だけであった。いまは近江近在五磯内、両国筋まで田畑の養となす。干しいわしより理方よしという、関東いまだこの益あるをしらず」と書き残している。どうも関東方面には食料としても肥料としてもあまり出回らなかったようであります。


江戸前の新鮮な魚介類、千葉沖の大量に取れる鰯の漁獲とも相まって、江戸では鰊は軽視されます。従って調べてみますと、江戸時代に江戸市中で発刊された料理書には、鰊はほとんど登場しません。会津や京都周辺に似た食文化があるのも、このような視点から見ればうなずけます。


| 02.親父と「出会い」 03月24日 18:08 | コメント 4 通 |

- ワシントン講演(再録6)

干しにしん
この鰊に関してもいままで様々な事がいわれてきました。今ではそんなまことしやかな話を、どうどうとする人はあまり見かけなくなりましたが、正直申し上げましてかなりいい加減でございました。

会津にも鰊の料理があるのは。京都守護食などの関係であるとか、あるいは文化年間に会津藩が北方警備などの際に持ち込こまれたのだとか、誠にいい加減です。歴史上の事件と結び付けたくなる心情は、私も会津人ですから、 わからないわけでもありませんが如何かと思うのであります。

会津に鰊がくることになったのは、北前船の運航によるものです。江戸時代以前、まだ北前船航路が無い時代、蝦夷地の海産物や特産品を東北地方へ持ち込んだのは、アイヌだと言われています。交易といっても物物交換的な性格が強かったらしく、米一俵と干し鮭百本というのが交換の基準であったと記録にあります。

しかしアイヌが他の海産物や物産をいくら持ち込んだといっても、当時の運送手段から見ればたかが知れていたであろうし、一般の人々の食生活や食文化にまで影響を及ぼしたとは考えにくいものがあります。

そもそも北前船の初期は、近江商人たちがこの航路を開拓しますが、その期限は関が原にあります。近江商人は、関ヶ原の戦いの折り東軍徳川方へ鉄砲三千挺を寄進し、勝利に大いに貢献したとして、その見返りに商業活動上の多くの特権を手に入れます。

その特権のおかげで日本全国どこでも自由に商業活動を展開することができようになりましたした。当時未開の地であり、豊富な資源に恵まれた蝦夷地は、大きなビジネスチャンスを秘めており、彼らにとっては魅惑の土地であったであろうとおもわれます。

やがて、松前藩からも場所請負人として開発の様々な特権を得た彼らは、豊富な蝦夷地の物産を北前船で大量に本土へ持ち込みはじめます。近江商人の中でもこの蝦夷地開拓に関わった人たちは松前組と呼ばれていました。

「松前組中算用帳」といわれる近江商人の残した記録によれば、享保二年の年初めて五千俵の鰊が本土に持ち込まれたと書かれています。どうも享保年間前後が会津に鰊が入るきっかけで在ります。

享保年間というのは江戸時代の中ごろであります。これ以後頃会津へは、新潟港を基点に川を利用したり、荷馬車や人の背に担われて、日本海側から大量に持ち込まれはじめます。

幕末頃や明治期になりますと、鰊の相場は会津と京都で決まるとまでいわれ、明治期には会津の町に大きな海産物問屋も出現し、会津から各地へ鰊をはじめとする海産物が売りさばかれたといわれていきます。


| 02.親父と「出会い」 03月22日 09:25 | コメント 3 通 |

- ワシントン講演(再録5)

のっぺ
そんな中でこづゆはこの「煮る」という料理の一部だったと考えられます。
こづゆは元々は中国から伝わった精進料理だったと私は見ております

寺院から武家社会へ様々なものが伝わり、そのなかで食作法や料理の技術的なものまで伝わったと見るのが自然な流れです。

鎌倉以前の延喜式や食事の記録を見ますと。大抵は蒸すか焼くあるいは鱠のような生ものです。室町時代鉄でできた鍋は大変高価なものだったといわれています。

この鍋で物を煮る調理法は日本人の食生活に革命を起こしたといわれています。おそらく京都や奈良の寺院で修行した僧たちが地方に定住布教するなかで伝わっていった流れもあるかとも思います。

又全国にこづゆに煮た料理は数多くあります。その代表的なものが新潟の「のっぺ」(右上写真)です、今日私の友人がワシントンで話をするといいましたら、この「のっぺ」を持参してくれました。

この「のっぺ」言われるものは、京都や奈良にもあります。又、様々な呼び名でありますが、似たものは全国各地にあります。今回の会津の古い時代のこづゆの記録をたくさん見てますと、どうも食材だけからですと、こづゆが会津独自のものだとはいえないことがわかります。

いまのかたちができたのはおそらく明治末期以後のことであります。明治期の末期に会津の郷土料理としてのこづゆが完成したと見ても間違いないようです。それ以前は季節のものを細かく刻んで、あまり材料にはこだわり無く煮ているような印象を受けます。

そういう意味ではこづゆは会津人が育て上げてきた郷土料理といえるかもしれません。

料理はどうも時代により流行があるようですし、当然消えてゆく料理も出てきます。またその土地土地で進化してゆきます。又交通の発達やの環境変化にも大きな影響を受けやすいものでもあります。

磐越西線の開通の頃に新潟からたくさんの海産物が入荷するようになりその頃にこづゆも今の形に落ち着いた事が見て取れます。


| 02.親父と「出会い」 03月21日 14:44 | コメント 8 通 |

- ワシントン講演(再録4)

ワシントンにて
後の世になるものですが、この小笠原流の許状が会津各地に残っております。ほとんどが巻物や写本の形をとり、書かれた年代は長時の時代から150年以上も後の江戸時代も中期のものがほとんどであります。

おそらく会津藩校日新館以後のものがほとんどです。
この中身を見ますと当時の侍の生活の規範になった考え方がどのように形成されてきたのかが、きちんと証拠として残されている事を見ることが出来ます。

巻物を解き読んでまいりますと、その多くは古事記伝説から始まりまり、真言密教の梵字、それから中国から伝来した陰陽五行説。道教の考え方仏教説話、それらがひじょうに難解に並んでおります。

かくがくしかじかにて我が流の奥義はここのあるといわんばかりであります。しかしながらそのなかでも、形から多くの影響を受けたのは、禅宗の坊さんの食作法や供応形式である事は、まちがいありません。


| 02.親父と「出会い」 03月19日 13:24 | コメント 4 通 |

- ワシントンホテル講演(再録3)

koduyu
しかしそういうことを可能にした自然環境というのもあります
皆さんもこの地に暮らしてみて感じることと思いますが
会津は内陸部、① 冬積雪はあるものの比較的温暖な地域
②台風などの影響をあまり受けにくい地域
③1万年前は湖だった会津盆地の堆積層が形成する豊かな土壌
③日本海へ流れる鮭や鱒などの河川の恵み
というような自然環境のおだやかさもその大きな理由であると思います。しかしそののち会津の食文化も複雑で様々な影響を受けながら形を形成してまいります。

それが記録の上で少しずつ出てきますのが室町時代の塔寺異本長帖のなかの記述です。長禄年間の記述に松本肥前という豪族を赤飯と素麺でもてなした記述がございます。これが私が見たもっとも古い食事の記録であります。

もう少し明確になるのは戦国期を待たなければなりません。室町それ以前、日本に物を煮るという食文化が定着するのは鎌倉期とも室町の初期とも言われています。

今日話題になっております、こづゆもいわば煮る料理です。物を煮るためには「鍋」という道具が必要です。この鍋は鎌倉時代に中国から禅宗の伝来と共に伝わったといわれています。当時の武士階級は鎌倉幕府に見られますように禅宗の物の考え方や生活様式にいたるま、影響を受ける事となります。

特に会津は時代が下がりますが、芦名の時代に後の世に日本の生活様式の規範となる小笠原流の洗礼を早く受けた事がわかっています。東山慶山の大竜寺に小笠原流中興の祖、長時のお墓が残っております。時間がございましたら一度訪ねてください。

小笠原長時という人物は信州松本に勢力を持つ戦国大名でありました。なぜ会津に小笠原長時のお墓があるのかといいますと、今NHKテレビドラマで、話題の武田信玄が山本幹助の采配の元、信濃侵攻を企てる話を放映しております。

ところが当時信濃の国の戦国大名小笠原も源氏の流れを汲む名門、壮絶な戦いをして抵抗を致します。
武田を苦しめますが、やがては戦いに敗れ越後に落ち延びます。
上杉の食客となります。この一族の中から徳川の家臣として仕えたものが後の九州小倉の幕末まで続いた小笠原家であります。この小笠原長時は、食客にはなったものの、謙信と折り合いが悪かったのか、どういう理由か定かではありませんが、その後諸国を浪々とした後、会津に入ってくるわけであります。

最初南会津の河原田氏を頼りますが後ほど芦名を頼り今の稲の代(現在の米代)というところに屋敷を構えます。芦名の家中に弓、馬術、礼式、食作法など様々なことを伝えたといわれています。


| 02.親父と「出会い」 03月18日 07:17 | コメント 5 通 |

- ワシントンホテル講演(再録2)

花の鶴ヶ城
当時、それらの事を民有新聞で連載を始めたわけであります。
始めると同時に一番先に反応したのは、大学で食文化を研究している先生達でありました。

一番先に専門家の先生達をあいてに講演する事になったわけであります。それから、それがきっかけになりまして、新人物往来社の「歴史読本」に執筆しております。

さて、この会津という地域は相当古い時代から、大きな権力の基盤が存在していた事は御存知のとおりです。
あの大塚山古墳や坂下町の亀が森古墳のように東北でも有数の規模の古墳群の存在はそれを物語っております。

磐梯町に存在した巨大な仏教文化の遺跡、恵日寺などもこの地方の大地の恵みの豊かさの裏づけが無ければありえなかった話であります。

最近では坂下町で発掘されました陣が峰城の出土品などを見ますと12世紀という極めて記録の無い時代にも、相当大きな権力が存在した事がわかってきました。おびただしい青磁や白磁、それも中国大陸から伝来したものばかりが大量に出土しました。

その後も中央の権力と直接的な結びつきが強い勢力の政治支配が長く続く事になります。私達、会津人の祖先はそういう歴史的な背景の中で「命の継承」という壮大なドラマを演じてきた事になるわけであります。


 
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